その日常的という点と、あとはコレが一番大きいと思っているんですけれども、
普通の終活って結局自分は困らないんですよ。
正直、死んだら自分はこの世界にいないので、葬儀どうする墓どうするなんて「(残されたお前たちが)勝手に決めてくれ」と言われてしまったら、ぐうの音も出ないと言うか、「そうですか」みたいな感じになってしまって全く先に進まなくなってしまうんですね。
一方で、デジタル終活って、「恥」の要素にアプローチできるんですね。
「これは見られたくない」「これは見られたら死んでも死にきれない」とかとかいう意味で、「恥」にアプローチができるので、「自分は関係ない」「自分は困らない」という状況が、「自分も関係ある」「自分も困る」という風に変化します。
自分に対するアプローチ、恥に対するアプローチができるので、動機として取り組み易いかなと思っています。